できることならば、小学校の段階から

よく、「見えるようになったら何がしたい」と質問されることがあります。
「何をいまさら」という思いがある一方で「学びなおしをしたい」という気持ちもあったりします。
自分は生まれつきの障害で、当然ながら小学校から特別支援学校でした。
教科書の内容こそ普通学校と同じなのですが、それ以外の部分で普通学校と違う部分が多く、本来、子供時代に経験すべきことを経験できないまま大人になったので、心残りなのです。
自分には上に兄弟がいて、よく学校であったこと友達のことなどなど話してくれる人で、それを聞くのが楽しみでした。
それもあってか、普通学校の生活スタイルは何となくではありましたが、知っていました。
大人になってようやく、障害がある故の制約があるため、普通学校と全く同じことができないということが分かったわけです。
小学校低学年の頃はそんなこともつゆ知らず「まあ、こんなものか」という感じで過ごしていたのです。
成長するにつれて、普通学校はおろか世間様とのギャップに気づいてしまい「ここ明らかにおかしいだろ。」なんて思いながら学校生活を送っていました。
本来なら世の中休みなのに、普通どおり登校日になっているおかげで、本来の祝日・休日を知らないとか、漢字の勉強がないとか挙げたらきりがないです。
ちなみに、漢字に触れたのは、小学校高学年になってからのことで、パソコンを取り入れた授業が出てきた頃からでした。
自分の手で漢字が打てることに感動を覚えたのは、今でも鮮明に記憶に残っていますが、一般常識で考えたら非常に遅いのですよね。
後は「今見えてるものは何か」と見えるようになったとしても、今、目に映ってる物は何かが、理解できないのでは意味がないです。
見えない人でも生活できる術は身に着けたとは言え、見えないからこそ直面する苦労というのが無くなるわけではありません。
障害と付き合うことを割り切った以上「見えるようになったところで…」と思う一方、「もし、見えていたら・・・。」という思いも潜んでるんです。
街中の標識とか看板とかは、見えないものに取っては何の意味で立っているのか分からず、単なる邪魔者としかとらえることができないです。
しかし、これがもし見えていたら「意味のあるもの、必要なもの」と理解できるわけです。
前述したよう、障害は基本、死ぬまで治りませんが、障害を治す方法というのは研究されているようです。
例えば、出征前診断でダウン症かどうか判別できる段階にまでたどり着きましたし、目の障害を治す研究もあるのです
しかし「生きた神経(歯の神経など)を犠牲にして視神経として機能させる」とか「人工心臓や義手・義足と同じ理屈で人工の目を作る」などリスクを伴うものばかりで、とても有効とは言えません。
今後、医療が発達すれば、目の障害も今以上にリスクを伴わない方法で治せるところまで行きつくでしょうか。
果たしてそれはいつのことになるのでしょうか。
半分、期待しながら待っていようと思います。
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